
← ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)6 Jun · 21 min
#056「教行信証の総序に書いてある「たまたま行信を獲る?」や「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい?」、親鸞聖人は、なぜ、「遠く宿善を慶べ」ではなく、「遠く宿縁を慶べ」と言われたのか?」について
<p>今回は以下の質問について話をしました。</p><p><br></p><p>ーーーー</p><p>教行信証の総序に、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に不蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。」</p><p>とありますが、</p><p>この「行信を獲る」のは、「たまたま」なのでしょうか?(私は、「たまたま」の意味を、偶然とか、運が良く、などの意味で考えています。)</p><p>もし、「たまたま」が偶然とか、運が良く、などの意味であれば、宝くじに運が良く大当りしたみたいに、思えてしまいます。</p><p><br></p><p>また、「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい」のであれば、今生で阿弥陀仏に救われるのは無理なのかなぁ?</p><p>と、心が折れ、あきらめの境地になってしまいます。</p><p><br></p><p>さらに、「遠く宿縁を慶べ」とありますが、これは、「宿善」ではなく、「宿縁」と親鸞聖人が書かれているのは、何か深い意味があるのでしょうか?</p><p><br></p><p>これらの教行信証の総序に書いてある「たまたま行信を獲る?」や「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい?」、親鸞聖人は、なぜ、「遠く宿善を慶べ」ではなく、「遠く宿縁を慶べ」と言われたのか?</p><p>について、ネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせていただきたいです。</p><p>ーーーー</p><p><br></p><p>○話にでたご文</p><p><br></p><p>穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。</p><p>たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行証文類・総序・P132)</p><p><br></p><p>○悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。(化身土文類・浄土真宗聖典註釈版P412)</p><p><br></p><p>----</p><p>質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。</p><p><a href="https://anjinmondou.hatenablog.jp">安心問答ー浄土真宗の信心について</a></p><p>yamamoyama@gmail.com</p><p>X(<a href="https://x.com/anjinmondou">@anjinmondou</a>)</p><p>匿名での質問はこちらから</p><p><a href="https://marshmallow-qa.com/gx88ub9xl743w46">マシュマロ</a></p><p><br></p>