
← ブックカタリスト8 sep · 1 u 03 min
BC147『哲学の始め方』『バラバラな世界で共に生きる』
今回は2冊セットシリーズの第五回として『哲学の始め方 (ハヤカワ新書)』と『バラバラな世界で共に生きる: リチャード・ローティの哲学 (NHK出版新書 760)』の二冊をからめて紹介しました。
共に「哲学」の本ではありますが、異なるアプローチで書かれています。『哲学の始め方』は懐疑論と格闘する哲学の実践を示すもので、『バラバラな世界で共に生きる』は、ローティという哲学者の紹介です。ぜんぜん違うとは言えば違うでしょう。
しかし、共に「会話」ということば(概念)がキーになっている点に注目し、二つの本をつなげてみようと試みました。ちなみに、二つの本の「会話」はまったく同じ意味というわけではありません。しかし、「会話」という同じ言葉が使われている。そこに越境=誤配の可能性がある、というのが言葉というものの面白さだな、と思います。
収録時に使った読書メモは以下からご覧いただけますので、書誌情報などもそちらからご確認ください。
◇ブックカタリストBC147用メモ | 倉下忠憲の発想工房
ジグザグ・モデル
私は誰かに命令されるのが大嫌いなのですが、その感覚を内省してみると、「相手の原理を押しつけられている感じがするから」というのが理由なのだろうと思います。こっちにはこっちの原理があるんだよ、と言いたくなる。
ローティの『偶然性・アイロニー・連帯: リベラル・ユートピアの可能性』を読んで、ズギューンと心を打ち抜かれたのは、彼が異なる原理の存在を肯定していたからです。だって、プラトンなんてイデアですし、哲学王による国家の運営ですし、詩人は追い出されるわけで、全体的から「異なる原理など認めんぞ!」という雰囲気がプンプンと漂ってきます(学術的な読解でどうなっているのかはわかりません。あくまで雰囲気です)。
多かれ少なかれ、「真理」を探究するとそのような姿勢になるのでしょう。だって真理ですからね。そこに”ノイズ”がまざっているわけにはいかない。そのような態度があり、おそらくは長く続いてきて(これも印象です)、ある段階からその姿勢に「水を差す」ような人たち──たとえばデリダやレヴィ=ストロース──が出てきた、という構図で今のところは理解していますが、とりあえず「単一の原理ですべてを説明し尽くそうとしない→ことばづかいをおしつけない」というのは私好みの姿勢です。
一方で、そうした真理の探究が無為なのかと言うと──ウィトゲンシュタインは無為だと言うのかもしれませんが──おそらくはそうではないでしょう。たしかに真理が見つかれば、人類の会話は終わってしまうわけですが、2000年以上に及ぶ思弁においても結局「真理」は見つけられなかったわけですから。むしろ、真理が決して見つけられないものだとするならば、「真理の探究」は、会話を続けるための一つの舞台足りえるのかもしれません。
ただしその思弁が、公の場に提出されたら、という条件がつきます。自分ひとりで閉じこもって「真理」を探究していくことは、二重の意味で弊害があります。一つは、それが人類の会話への参加になっていないこと。もう一つは、懐疑論的な思考の「沼」に嵌まり、日常的な会話=他者の価値そのものが、その人の中から損なわれてしまう可能性があること。この二つです。
実際、私の20代の頃は、哲学的・文学的「イキり」みたいな状態になっていて、ひとりで考えるのがよいのだ、他人との会話なんて邪魔なものでしかないというかなり非日常的な価値観に染まっていました。今考えると愚かしすぎて頬が赤く染まってしまいます。自分が何を分かっていないのかも分かっていなかったのです。